20201116 天声人語 坂田藤十郎さんを悼む
MP3•בית הפרקים
Manage episode 277956763 series 1433731
תוכן מסופק על ידי Jennykaede. כל תוכן הפודקאסטים כולל פרקים, גרפיקה ותיאורי פודקאסטים מועלים ומסופקים ישירות על ידי Jennykaede או שותף פלטפורמת הפודקאסט שלהם. אם אתה מאמין שמישהו משתמש ביצירה שלך המוגנת בזכויות יוצרים ללא רשותך, אתה יכול לעקוב אחר התהליך המתואר כאן https://he.player.fm/legal.
天声人语 11/16 坂田藤十郎さんを悼む(いたむ)
日本文学者のドナルド・キーンがその舞台を京都で目にしたのは、1953年だった。「私が歌舞伎に開眼(かいがん)したのはこの時だった。そして、最初に魅了されたのは女形(おやま)であった」。著書『能・文楽・歌舞伎』にそう記している▼
1953年,日本文学研究者唐纳德·基恩在京都第一次欣赏了坂田藤十郎的表演。后来,基恩在其著作《能剧、文乐、歌舞伎》中写到:“那天,我明白了何为歌舞伎之美。而且,最先令我着迷的是其中的‘女形’。”
演目(えんもく)は、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)作の「曽根崎(そねざき)心中」。主人公のお初(おはつ)を演じた女形は二代目中村扇雀(せんじゃく)、後の四代目坂田藤十郎(とうじゅうろう)さんである。目を奪われたのはキーンだけではなかったようで、世に扇雀ブームが起きた。お初が男の手を取って死に場所へと向かう姿は、当時としては斬新(ざんしん)だったという▼
基恩观看的演出是近松门左卫门的作品《曾根崎殉情》。扮演剧中主人公阿初的“女形”是第二代中村扇雀,即后来的第四代坂田藤十郎。沉醉于表演中的不只是基恩一人,当时社会上也出现了一股“扇雀热潮”。阿初牵着男人的手迈向死亡之地,在那个年代,这样的情节是十分新颖的。
「新しい女形の誕生」ともたたえられた上方(かみがた)歌舞伎の若き(わかき)役者は以来、近松作品に光をあて続ける。「近松座」も結成(けっせい)し、お初を演じたのは実に1400回にのぼる。人間国宝(こくほう)にもなった藤十郎さんが88歳の生涯を閉じた▼
此作品后,世人称赞这位年轻的上方歌舞伎演员代表了“新‘女形’的诞生”,之后他出演的近松作品也都备受瞩目。后来,他创立了“近松剧院”,光是“阿初”这一角色就足足演了1400多次。11月12日,被誉为“人类国宝”(重要无形文化财产保持者)的藤十郎与世长辞,享年88岁。
少年のころは歌舞伎がそれほど好きではなかったというが、指導者に恵まれ開眼した。能や京舞(きょうまい)などの第一人者たちを師匠に、芸を磨いた▼
据说,少年时代的坂田并没有多喜爱歌舞伎,在有幸遇到良师后,才领悟到歌舞伎的精髓。后来,他还拜“能剧”、“京舞”首屈一指的大家为师,继续磨炼演技。
元禄(げんろく)時代の上方の名優、初代坂田藤十郎にあこがれ、その名を継ぐのが長年の願いだった。江戸を代表する市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)の名は受け継がれているのに、藤十郎は絶えて久しかったからだ。政治や経済、そして文化の東京一極集中(いっきょくしゅうちゅう)が進むこの国にも思うところがあったに違いない▼
藤十郎非常敬仰元禄时代的上方名演员——初代坂田藤十郎,他多年的夙愿便是能继承他的名字。因为代表江户歌舞伎的“市川团十郎”的家名一直得以沿袭,而代表京阪地区歌舞伎的藤十郎之名却迟迟无人继承。一定是因为他对日本政治、经济及文化中心一齐向东京首都圈靠拢这一现状有着自己的想法,才会做出这一选择吧。
役作りは原作を読み直すところから始めた。千回以上演じた役でも「今度はこうしよう、明日はこう演じてみよう」と臨むのだと自著(じちょ)にある。体の動く限り、つやのある役を演じ続けた。
藤十郎对角色的塑造是从重读原作开始的。他在自己的著作中提到,即便是面对演了一千次以上的角色,仍会抱着“今天这样演,明天换一种方式演”的态度。对他来说,只要身体还能动,就会继续扮演娇艳动人的“女形”。
…
continue reading
日本文学者のドナルド・キーンがその舞台を京都で目にしたのは、1953年だった。「私が歌舞伎に開眼(かいがん)したのはこの時だった。そして、最初に魅了されたのは女形(おやま)であった」。著書『能・文楽・歌舞伎』にそう記している▼
1953年,日本文学研究者唐纳德·基恩在京都第一次欣赏了坂田藤十郎的表演。后来,基恩在其著作《能剧、文乐、歌舞伎》中写到:“那天,我明白了何为歌舞伎之美。而且,最先令我着迷的是其中的‘女形’。”
演目(えんもく)は、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)作の「曽根崎(そねざき)心中」。主人公のお初(おはつ)を演じた女形は二代目中村扇雀(せんじゃく)、後の四代目坂田藤十郎(とうじゅうろう)さんである。目を奪われたのはキーンだけではなかったようで、世に扇雀ブームが起きた。お初が男の手を取って死に場所へと向かう姿は、当時としては斬新(ざんしん)だったという▼
基恩观看的演出是近松门左卫门的作品《曾根崎殉情》。扮演剧中主人公阿初的“女形”是第二代中村扇雀,即后来的第四代坂田藤十郎。沉醉于表演中的不只是基恩一人,当时社会上也出现了一股“扇雀热潮”。阿初牵着男人的手迈向死亡之地,在那个年代,这样的情节是十分新颖的。
「新しい女形の誕生」ともたたえられた上方(かみがた)歌舞伎の若き(わかき)役者は以来、近松作品に光をあて続ける。「近松座」も結成(けっせい)し、お初を演じたのは実に1400回にのぼる。人間国宝(こくほう)にもなった藤十郎さんが88歳の生涯を閉じた▼
此作品后,世人称赞这位年轻的上方歌舞伎演员代表了“新‘女形’的诞生”,之后他出演的近松作品也都备受瞩目。后来,他创立了“近松剧院”,光是“阿初”这一角色就足足演了1400多次。11月12日,被誉为“人类国宝”(重要无形文化财产保持者)的藤十郎与世长辞,享年88岁。
少年のころは歌舞伎がそれほど好きではなかったというが、指導者に恵まれ開眼した。能や京舞(きょうまい)などの第一人者たちを師匠に、芸を磨いた▼
据说,少年时代的坂田并没有多喜爱歌舞伎,在有幸遇到良师后,才领悟到歌舞伎的精髓。后来,他还拜“能剧”、“京舞”首屈一指的大家为师,继续磨炼演技。
元禄(げんろく)時代の上方の名優、初代坂田藤十郎にあこがれ、その名を継ぐのが長年の願いだった。江戸を代表する市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)の名は受け継がれているのに、藤十郎は絶えて久しかったからだ。政治や経済、そして文化の東京一極集中(いっきょくしゅうちゅう)が進むこの国にも思うところがあったに違いない▼
藤十郎非常敬仰元禄时代的上方名演员——初代坂田藤十郎,他多年的夙愿便是能继承他的名字。因为代表江户歌舞伎的“市川团十郎”的家名一直得以沿袭,而代表京阪地区歌舞伎的藤十郎之名却迟迟无人继承。一定是因为他对日本政治、经济及文化中心一齐向东京首都圈靠拢这一现状有着自己的想法,才会做出这一选择吧。
役作りは原作を読み直すところから始めた。千回以上演じた役でも「今度はこうしよう、明日はこう演じてみよう」と臨むのだと自著(じちょ)にある。体の動く限り、つやのある役を演じ続けた。
藤十郎对角色的塑造是从重读原作开始的。他在自己的著作中提到,即便是面对演了一千次以上的角色,仍会抱着“今天这样演,明天换一种方式演”的态度。对他来说,只要身体还能动,就会继续扮演娇艳动人的“女形”。
362 פרקים